犯罪的な行為を扱う場合

 近年、凶悪犯罪、異常犯罪が増えてきています。その原因、背景は色々あるわけですが、物書きにとってもこれは無関心ではいられない問題です。それどころかこういった問題に興味を持ち、そうした内容を取り扱う人も居るでしょう。そしてまた読者も、こうした物語を読むことを望んでもいます。基本的に日常的でない非日常的な、それでいてリアリティのある物語は人気があるものです。しかし、書き手はこれらの問題を取り扱う時は慎重でなくてはいけません。なぜなら、そうした物語が読者に犯罪を引き起こす契機にもなりかねないからです。
 書く事に反対しているのではありません。殆どの読者においてはそうした物語を読んだ所で単に満足で終わり、犯罪に走る事はまずありません。危険なのは、それが犯罪予備軍と言うべき人たちが読んで感化してしまった場合です。ただしかし、そうでない人にとっても、生々しい犯罪行為のテキストは有害になりえます。
 どういうことか?行為というものは繰り返すうちに慣れるものです。それはたとえ犯罪行為であっても同様です。環境がそれを強いる場合は尚更です。たとえば最近の話題では、旧日本軍兵士が中国人に対して行った事への証言というのがあったと思います。実際にこの兵士は戦時における人殺しという行為について、最初は躊躇いを覚えたものの徐々に感じなくなっていったなどと言っていました。
 で、こういった状況をリアルに描写する作品が実際に存在するわけです(殺人に限らず犯罪全般で考えてください)。所謂殺人物と呼ばれるジャンルや、殺し屋の物語など。「殺さないと生きていけない」というような状況で殺しを実行する人間、あるいは主人公。どこまで描くかについては作品間でもちろん大きな相違がありますが。読み手をある程度おいてけぼりにして、作中人物が殺しに躊躇いをあまり感じなくなってくるものもあれば、読み手が同化することを意図しているとしか思えないくらい執拗な描写をしたものもあります。
 勿論、多くの作品においては、罪のない人間を殺す描写を避けようとします。大抵の場合こういう描写をもって殺されるのは悪人です。しかしこれは、殺人という行為の凶悪さをカムフラージュしたものに過ぎません。(参考:PCゲーム・ファントムオブインフェルノ
 ともあれ、こうした行為が作品中で繰り返されれば、読み手である私達も、多少なり感覚が麻痺します。勿論、直ちに現実世界まで適応される、というものではありません。実体験と、物語における追体験にはやはり相当の差異があるからです。しかし、読み手がこうした描写、物語に強い興味を持ち続け、読み続けていけば、全ての人にとまでは言いませんが、人によって、やはり現実世界への多少なりの影響は避けられなくなります。作品内のストーリーや内包するイデオロギーというものは、常に読み手に少なからずの意識、影響を与えていくものなのです。(ついでに言うと、書き手というものは読み手になんらかの意識、影響を与えたいという願望、欲望も持っています。そういう指向性と結びつく場合もありえます)
 影響を受けるのは読み手の責任だ、という意見もありますが、それで書き手自身の責任を否定しようとするなら、責任放棄も甚だしいと言えましょう。書き手は自らの作品が与える影響について、多少なりの責任を持たなくてはいけません。
 悪が初めから終わりまで得をし、それを礼賛するような物語は基本的にはやはり宜しいとは言えません。私たちは、書き手として気を付けるだけでなく、読み手側としてもそういった作品の存在には注意し、時には警告を発するべきでしょう。18禁パソコンゲームの中にはそういったものが実際かなり含まれています(ここでは主に性犯罪の領域になりますが)。私はその手のゲームは割と好きな人間でもあるのですが、最近の行き過ぎた作品群にはかなり危険性を感じてもいます。勿論、ネット小説の分野でも同じような状況は存在しています。

参考:碓井真史氏の著書とリリアン女史の著書……おーざっぱ?^^;