他人が汚く感じるお年頃

"「アイスピックも考えた」加害女児、3通りの方法を計画 "
http://www.asahi.com/national/update/0607/016.html
 佐世保女児死亡事件。1件の事件で「最近の少女たちは…」と一括しちゃうのは勿論危険です。しかし、最近の…でなくても、子どもというものは特有の心の闇を抱えているものです。簡単に言うと、自分の思い通りにならない世界、非自己への不快感といったものでしょうか。しかし普通は、日常の様々な興味が、そうした闇の部分を覆い隠してくれるはずなのです。それが彼女の場合は、非日常的なものを描くメディアを通して、闇に強く同調してしまった、と私は分析します。
 バトルロワイアル。この作品が原因のすべてではないとしても、彼女に強い影響を与えてしまったわけです。私は映画公開の時にはや、この作品が出回ることについての警鐘を鳴らしていました。3年半前、2000/11/29に私は自サイトでこんな事を書きました。

 映画「バトル・ロワイアル」が国会(文教委員会?)で槍玉に上がっていますね。彼らに子供の育成うんぬんについて語るだけの資格があるかどうかはともかく、確かに過激すぎる物語です。中学生の「世界観設定によって決められた、有無を言わさぬ」殺し合い。テーマもあるし、正直話も面白い。だけれども、子供に見てもらいたいかと聞かれれば、決してYESとは言う事はないでしょう。「生々しく、リアルで、それでいて非現実的な世界の中での、抑圧された、あるいは混乱の自由の中での虐殺ネタ」が私は好きではないのです。私がやるとしても、必ず救いを用意しますし、必要外無意味な殺しのシーンは出さないでしょう。作品における描写、展開はあくまでテーマ消化のため、あるいはメタファーのためのものであり、刺激的な快楽を与えるためのものであってはならないと思っているからです。もひとつ言うなら、書き手は確かに「神」と同じ力を持ちえますが、「神」がやるような実験(ヨブ記ファウストでも見てちょ)を、その資格のない人がやって良いのか?と考えます。
 (以前、寄生獣の終盤について、あからさまに否定したことがありましたね、私)
 監督が何を言おうが、バトル・ロワイアルは娯楽作品以外の何物でもありません。そこには計算された展開(サバイバルのなかでのドラマチックパターン。団結とか約束とか挫折とか)、台詞(「わたし、ずっと好きだったんだよ…」)があるだけでなく、「生か死か」というさっぱりとした単純かつ殺伐なテーマを今の人たちは好むという事まで知っているからです。「わびさびは忘れ去られ、人間はワイルドになっている」ってな事を田口ランディ氏が言っていたような気がしますが、それを助長する効果があるのではないか?と思わず危惧してしまうのです。
 スプラッタとかホラーとか、好きな人は好きだろうし、それも嗜好の一つと認めるために、私個人は好ましくないとしても、別に映画化などに対して反対運動なんてするつもりはないけれど(見ない人は見ないしね)、今回のように変に話題が上ってしまい、「まだメタファーの解釈ができないひとたち」に興味を惹かせてしまう事、これを私は恐れるのです。
From: http://www.campus.ne.jp/~ishigami/PROMOTE/NOTE/S200011.htm

 そして私が危惧していた事が起こったわけです。ただし、私が当初考えていたよりも幼い少女による、想定していた最悪の犯行の形を取ったわけでしたが。
 もしこの作品が無かったら今回の犯行はあったかどうか?
 私は繰り返し主張します。社会、特に親は、子どもから危険なメディアを遠ざけるべきです。