衆議院選挙も終わったが

 政権交代はならず。自民は公明の支援の下、多少減に留まる程度。
 民主は予想以上に躍進した感があったが、それでもまだまだ届かない。
 共産と社民の議席数零落は酷いものだ。共産が小選挙区に文句を言いたくなる気持ちは分かる。小選挙区制そのもの、多数派が圧倒的有利で、それに対抗する勢力が何とか勝てる、所謂2大政党制しか生き残れない制度となっている。中選挙区制がもっとも望ましいとも確信はできないが、民意の反映としてはこちらのほうが望ましいと思っている。
 私は主として支持する政党を一応は持っているが、立場上書きにくいので書かないし、聞かれても明言を避けるだろう。ただし、一応と言っているだけであり、投票はその時次第で変えることも充分にある。
 しかし、政治について語ることはなんと難しいことか。ほとんどの理念は賛同者と批判者が出てくる。政治といった重要な理念については批判の度合いも激しくなる。批判そのものは悪いことではない。しかし問題は、度を過ぎた批判行動である。ネット内外において危険に晒される事もある。批判者の多くは匿名で、言いたい放題である。
 もっと寛容であって欲しいものだ。理念上対立することは止むを得ない、人間はそれぞれの思想を持つものだ。
 しかし理念が幾つか合わないだけで、人間的に敵対する必要はあるだろうか。キケロカエサルは政敵であったが友人でもあった。私はこれを見習いたいと常に思っている。

 まあ、こういうと、決裂関係になった例も挙げねばならないか。
 たとえばヘーゲルシェリング。哲学のもっとも深い層になってくると当人の人格そのものをかけた戦いとなってくる。ここにおける断交は止むを得ないのかも知れない。だから「仲良くすべきだった」とさすがに言う事はできない。しかし、それでもなお、これらの思想そのものは相違対立すれど、目指す所というか、人間の利益のための哲学であるところは同じなのだから、そういう観点から、やはりこういうケースにおいても私は、人間としての親交は続いて欲しかった、とも思っているのである。
 私のこうした願いは宗教についても言える事である。
 21世紀は宥和共存の時代でなくてはならないと思うが、現実には残念かな、どちらかというと逆の方向に進んでいる。私はそれを嘆くのだ。