意見する条件とは

 某氏への反応記事のようなもの。暗に私もその1人と示唆されていたと読み取ったので。その機会を使って、それ以外の事も書いてますが。
 ある事柄について意見、それも批判的な意見をするのに必要な資格とは何でしょうか。
 原則、その事柄について、表面的でなく知っていること、またはその事柄で述べられている分野について関与してみるが望ましいのは間違いないでしょう。それは意見の質を高める事になるだけでなく、間違った意見を減らすことに役立ちます。勿論どこまで知ることが可能か、結局それは個人差があるわけで、判断にも差は出てきます。
 さて、現実的に、それを深く知るのが無理、あるいは大変に時間がかかる場合があります。ではこういう場合は意見や批判をする資格がないのでしょうか? 専門家のみが語ることができ、それ以外の者は黙れ、と要求するのは正しいと言えましょうか。ある曲を聴いて、「この曲はだめだな」と曲に明るくない人が評するのは間違っているのでしょうか。
 個人の考え(匿名の主張はまた別です)はなんらかの主張であり、たとえ無知があろうと、そこに偏見が混じりこんでいたとしても、論理に矛盾を起こしていない限りはそれなりに尊重されるべきものです。それに賛成するか反対するかはまた別の話ね。ともあれ、その主張にどれだけの意味合い、価値があるかは分かる人にはしっかり読み取れるものであり、知る人の意見よりは知らない人の意見は価値が低いのは概ねは明らかです、しかして語る資格が無い、と言われても私は納得はしないでしょう。
一面的であり浅い意見は、宜しくないと言われればそれまでですが、意図して自分の見たくないものを遮断し、見たいものだけを見て都合の良いように述べたのでは無いという条件の下に、そしてできるだけ自身も誤った知識はそれと分かれば捨て、正しきを知るよう勤めているという理念の元、そうした意見もやはり許されるべきだと思うのです。
 ネットにおいてはその意見があらぬ所に広がるから、自己の責任を明確にせよ、誤らせる可能性のある知識を与えるな、という点については概ね同感です。ただし、批判は全て真面目な文をもってなされるべきものというわけでもなく、茶目っ気のある皮肉というものもあるわけで、それは一言の中に案外、意外に多くの示唆を与えてくれる場合もあります。意見者は「察しろ」と要求し、ある人は「配慮せよ」と意見者に要求します。このテクストをめぐる問答は、歩み寄るか、すれ違うかまで続けられる戦いなのです。